理科塾から望む教育コラム

教育、世相、人と街…、肌で感じた小さな発見と疑問について軽い頭を絞りながら綴ります。

内申点という魔物⑥―“頭のいい子”の落とし穴―

第4回・第5回コラムでは、内申点という限定的な学力の物差しが、子どもたちを学力別カテゴリーに振り分け、学力の優劣意識を刷り込む弊害について取り上げてきました。この年齢期に優秀な成績を残せなかった生徒が、劣等意識を打ち砕けば、能力を開花させられることは既述の通りです。今回は、内申評価の壁を上手に上ってきた“頭のいい生徒”に潜む落とし穴について綴っていきます。

 

 

■スタートダッシュは有利だけれど

 

早い段階から成績上位を保ってきた“頭のいい生徒”は、脳の発達における抽象概念の理解と組織化が早く始まったタイプに多くみられます。彼らは、中学程度の学習内容までは難なく理解できます。こうしたスタートダッシュの早さは、学習面で有利に働きます。というのも彼らは勉強へのアレルギーがなく、学ぶ楽しさを知っているからです。このまま偏差値の高い高校・大学と進学して、そこで優秀な同級生と出会い、影響を受け合い、高い目標を設定できるでしょう。

 

一方でこのような“優等生”は、優秀であるが故に将来の可能性を自ら狭めてしまう危険性を孕んでいます。

 

 

■優等生であり続けることが目標となってしまう

 

成績上位を維持してきた生徒は、何らかの要因で成績が下降してしまった時、現状を受け入れられず、自分を否定されたかのように落ち込んでしまう場合があります。いわゆる゛挫折に弱い”と言われるケースです。

 

このようなケースは、中学の成績優秀者が公立トップ校へ進学した場合に起こりがちです。様々な学力の同級生が混在していた公立中学と異なり、公立トップ校は各中学から成績優秀者が集まる環境です。仮に一学年に300人の生徒がいたとすると、校内テストで100番や200番となることは充分あり得ます。トップ校での100番は、冷静に考えると悪い順位ではないかもしれません。ところが、これまで一桁の順位を見慣れてきた生徒が突如三桁の順位を目の当たりにして、自尊心が砕かれるのも無理はありません。

 

“成績の良い私”と周囲からも見られ、自分自身もそれを当たり前だとする思い込みが、不要なプライドを生んでしまうと厄介です。不要なプライドは、精神的な強さが育まれる機会を奪いかねません。若さの特権は、比較的責任を伴わず、様々な経験と失敗を重ねられる点にあります。挫折知らずで優秀であり続ける人は、失敗や転落を恐れるあまり、優秀と評価され続けること自体を目標としてしまいがちです。それは、未開の地への挑戦を遠ざけ、いつしか自分を見失うことに繋がります。

 

 

■世間の価値観に囚われるな

 

成績優秀な生徒が周囲からの期待に応えてきた姿勢は、同時に世間の価値観を信じて疑わずにやってきた証とも言えます。彼らは、学校や大人の社会の“正しい道”を真面目に守り実践し、褒められてきた経験を持っています。どのように振る舞い、何をすれば大人が自分を評価するのかを繊細に読み取れます。極論を言えば、大人や世間に評価されることが自らの行動の指針となってしまう場合があるのです。

 

未来や進路は、世間の価値観に照らして選ぶものではありません。優等生が将来の夢として掲げる職業の一つに医師があります。もちろん、医師という職業は社会への貢献度が高くやりがいのある仕事です。医療への問題意識や志から医師を目指しているのならば、誰からも賞賛されることでしょう。しかし、医師が世間の価値観に照らしてステータスの高い職業であるという理由だけから選択したのであれば、どうでしょうか。私なら患者としてそのような医師に診断されたくありません。

 

自分が夢中になれることや自分の可能性を追い求め行き着いた場所が自分の居場所となるはずです。人と比較する中に自己のアイデンティティを求める行為は、自分らしくあることを難しくします。人と比べず、世間の価値感に惑わされず、自分の心に確固とした物差しを持つことが自らの能力を最大限に発揮する道です。せっかくの能力を世間の価値観の優劣競争に費やしては勿体ない限りです。

 

 

ここまで6回にわたり、公立中学の内申評価制度がもたらす役割と弊害について述べてきました。次回コラムからは、「多感な思春期が将来の礎となる環境はどうすれば実現できるのか」を考えてみます。

 

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