理科塾から望む教育コラム

教育、世相、人と街…、肌で感じた小さな発見と疑問について軽い頭を絞りながら綴ります。

合格できる人の8つの特徴 ②志望校への執着心が強い

教育メディアから飛び交う、華々しい合格者数ランキングの裏側にはその何倍もの数の不合格者が存在します。彼らの合否の分かれ道は何だったのか。私の指導経験から得た合格できる人の8つの特徴を10回に渡ってお話しします。新受験生の皆さんの一助となれば幸いです。

 

 

合格できる人の特徴2 ― 志望校への執着心が強い ―

 

志望校への執着心が強い人とは、志望する学校に対してぶれない気持ちを持てる人とも言えます。学校説明会のみならず学園祭やイベントに足を運び、志望する学校はどのような学校であるかを詳しく下調べできていることはもちろんのこと、志望する学校で何をどのように学びたいのか、どのような自分になりたいのか、自分だけの志望理由を明確に答えられます。

 

同級生の多くが志望するからとか、「一緒の学校に行こう」と誘われたからとか、合格すれば”できる自分”の自尊心が保たれるとか、周囲から一目置かれるから、といった理由では志望校への執着心は生まれません。

 

 

志望校へ執着心をもつことはなぜ必要なのでしょうか。

 

志望校へのぶれない気持ちは、受験勉強に対する原動力となるからです。人間は欲求や希望を満たそうとする生き物です。欲求達成のために知恵や工夫を凝らすことはもちろん、物事の捉え方や価値観にも変化を起こします。同じ日常の中で見える景色が変われば、あなたの行動は受験に向かって前向きになるはずです。

 

私の指導経験の中でも志望校へ強い執着心をもつ生徒は、授業への食いつき方が違いました。「このテーマは過去の問題でも頻出されている」と私が補足情報を加えたときですら、生徒の眼差しとペンを走らせる力は力強いものでした。

 

志望校の合格に繋がるものであれば、どんな情報や勉強にも貪欲でいられます。

こうした貪欲さは、受験の終盤において鍵を握るメンタルに影響を及ぼします。志望校への執着心の強さは侮れないマストアイテムです。

 

 

一貫した考えに基づく行動ができる

 

また、志望校への執着心がもたらすものに一貫性があげられます。

 

学習の方向性はもちろんのこと、生活態度や考え方にも志望校に合格するためのブレない姿勢が身につきます。

つまり、生活の軸を志望校合格に据えられる自制心が高くなるため、課外活動や趣味やスマホ等の利用を一旦控え、必要な情報と行動に意識が向かうようになります。

 

一方で志望校への執着心が低い人が志望校を選択する際に、その考え方に一貫性のない場合が往々にして見られます。

 

たとえば、主体的な学びを特徴とする学校を第一志望に据えているにもかかわらず、第二志望には管理主義ファーストな学校を併願したり、帰国生を積極的に受け入れ、多面的な国際教育に力を入れている共学校と地域偏重で保守的な男子校を併願したりするケースがあげられます。

 

その理由として、周囲と歩調を合わせようとする意識が働いていることもあるでしょうし、入学後の自身の具体像が明確に立てられていないこともあるでしょう。また、不安や自信の無さから安全牌(パイ)をとりすぎることで気持ちにブレを生じさせているのかもしれません。

 

当然のごとく、どの志望校に対しても熱量が中途半端になりがちです。あれもこれもと不安に襲われるほど、学習の方針と内容が支離滅裂になる危険性を孕んでいます。

 

社会経験の少ない10代の中高生には致し方ない面もあるのですが、進学先選びに関してプロのアドバイスに耳を傾けて、自己分析をしっかり行わなければなりません。決断力とブレない意志はあなたの潜在能力を引き出すことに繋がるのですから。

 

 

 

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合格できる人の8つの特徴 ①横並び意識がない

教育メディアから飛び交う、華々しい合格者数ランキングの裏側にはその何倍もの数の不合格者が存在します。彼らの合否の分かれ道は何だったのか。私の指導経験から得た合格できる人の8つの特徴を10回に渡ってお話しします。新受験生の皆さんの一助となれば幸いです。

 

 

合格できる人の特徴1 ― 横並び意識がない ―

 

横並び意識がない人とは、受験において希望する進路を自分の目的と意志で決められる人であり、進学先での自分の姿を具体的にイメージできている人を指します。こうした人は人と異なる道を選ぶことに何の抵抗感もなく、むしろ自分だけの進路に誇りすら持っています。

 

一方で、周囲の同級生と学習や進路の歩調を合わせている人はこれに該当しません。

たとえば、以下のような事例があてはまります。

  • 身近な人が志望する(進学した)学校の中から自分の志望校を決める。
  • 周囲と同じ模試を一緒に受けないと焦る、落ち着かない。
  • 同じ学校内で競い合うことに安心と満足を得る。
  • 総じて人と異なる行動ができない。浮くことを嫌う。

 

一般論ですが、私立学校よりも公立学校に通う学生に横並び意識は多く見られます。公立学校では学区制により同じ地域に住む者同士が肩を並べます。地域のつながりや連帯感は人の成長に良い影響を及ぼすことに異論はありません。ただし、同質な慣習や価値観の中で育つことは、必然的に外の環境へ眼を向けにくくさせる作用もあります。

マイルドヤンキーなる言葉があるように、慣れ浸しんだコミュニティーに胡坐をかくと視野が狭くなると同時に自らの可能性に気づく機会を失いかねません。横並び意識は知りえる世界や価値感から知らぬ内にあなたを遠ざけています。

 

あなたにとってのトップ校は思いもかけない場所にあるかもしれません。周囲の様子を窺いながら徐に行動するのではなく、広い視野と好奇心をもって自ら飛び込んでいく勇気が必要です。特に難関校を目指す人は、”周囲と同じであること”に胡坐をかいてはいけません。誰もが行けないから”難関校”と呼ばれる所以をお忘れないように。

 

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合格できる人の8つの特徴 序章 日々の努力と塾に通う意味

春風と陽光は春の訪れを感じさせてくれます。とはいえ、昨今の春には春風ならぬ暴風が吹き荒れています。原因は南岸低気圧にあり。今年はとりわけその発生数が多い気がします。これも気候変動の影響なのでしょうか。

南岸低気圧は発達しながら東へ進み、西高東低の気圧配置を展開します。いわゆる爆弾低気圧と言われるもので、日本列島を縦に走る等圧線の間隔が狭いほど風が強く吹きます。

このコラムを書き始めた日も猛烈な北風が吹き荒れています。台所の換気扇の蓋がバッタンバタンと音を立て、家全体が時折小刻みに揺れるほど。「三匹の子ぶた」の木の家のようにならないかと気を揉みながらキーボードを打ち込んでいます。

 

さて昨日までの受験生にとって春は、卒業式を終え新年度に向けて新天地へ旅立つ季節です。また新受験生にとっては、次の受験レースの戦いに向けてすでにその火蓋が切られています。

 

この時期に教育メディアから飛び交う、華々しい合格者数ランキングの裏側にはその何倍もの数の不合格者が存在します。彼らの合否の分かれ道は何だったのか。運や体調が影響した場合もあるかもしれませんが、このコラムでは、私の指導経験から得た合格できる人の8つの特徴をお話しします。新受験生の皆さんの一助となれば幸いです。

 

序章 ― 日々の努力と塾に通う意味 ―

 

受験の世界では運だけで合格を掴み取れることなどありません(受験は宝くじではありませんから)。また、塾業界には”合格請負人”なる肩書きも聞かれますが、どれだけ教え方が上手で、受験知識に長けた講師の下で教わったとしても、それがあなたの合格を保証するなんてことはあり得ません。

 

冒頭から身もふたもないことを言わせてもらいます。どこの塾に通おうと、誰に教わろうと、塾に通わないで通信教材を利用しようと、”日々の努力”が合格への唯一の処方箋なのです。

 

「そんなことは分かっている。それができれば苦労しない」とお叱りをうけるでしょう。まったくその通りなのですが、“どのようにいつ何を努力するのか”が肝要なわけです。塾で指示された課題に手をつけないことはもとより、自己満足的な努力を闇雲にしても合格には近づけません。現状を俯瞰的に分析し、適切なタイミングに、正しい学習内容と学習方法で日々の学習を積み重ねなければなりません。

 

もちろん、こうした学習を一人で実行できる中高生はよほど地頭が良くない限り滅多にいません。そこで、プロからその具体的な方策を得る必要があります。塾に通っている人ならば、塾の先生がその役割を果たしてくれるはずです。すなわち”塾に通う”とは、”学習の方策”を得ることであり、設問の”解き方”を教えてもらうことではありません。設問の”解き方”を教わるだけであれば、分かりやすい参考書や学習アプリが巷にあふれていますから事欠きません。

 

合格に近づける人は意識してか、意識せずしてか、上記の事柄を理解して実践できています。もし今あなたが、”解き方”を教わるためだけの塾通いをしているならば、塾に通う意味を問いただし、上手に塾を利用してみてください。授業コマ数だけを無駄に増やしても高額な月謝に見合う結果は得られません。

 

次回>>>合格できる人の8つの特徴 ①横並び意識がない -につづく

 

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宗教には宗教を

9月に入り肌を刺すような日差しを感じなくなったものの、猛暑がおさまりません。

休日のある日、教室で模試の問題を解いていましたが、気分を変えようと近くの公園に問題用紙と筆記用具を手にして出かけてみました。

 

夕方になれば、木陰のベンチも快適に感じられます。雑音もなく、集中して数学の問題と格闘していたところ、一人の外国人が話しかけてきました。

 

「絵を描いていますか?」

 

鉛筆と紙をもってベンチに腰掛けている私を見て、彼は私が風景画を描いていると思ったようです。

 

「No,I'm solving mathmatics' questions.」

「あっ、数学の先生ですか?」

「I'm running a private cram school for junior and high school students.」

「Oh,何の教科教えていますか?」

「I'm teaching mathemaics, Japanese, science including experiment and English.」

「Oh、すごいですね、英語の発音がとても上手ですね。」

「Thanks. But I haven't been abroad.」(本当は一度だけ行ったことがあるんだった。)

「Oh,すごいですね。」

その後、出身地やお仕事のことやお名前などについて雑談をしました。

しばらく話をした後、彼は「30秒、ちょっとだけお話いいですか?」と切り出してきました。

 

その瞬間、私は2つのことにピンときました。正確に言えば、1つ目のことはその瞬間ではなく、彼と目が合った瞬間から薄っすら気づいていたのですが・・・。

優しいほほ笑みと端正な顔立ちをもつ彼は、キリスト教系団体の布教をしているのだろうと。

 

若いころは街角で白人男性(だいたい2人組)に「ちょっとお話いいですか?」と呼び止められ、聖書やイエスキリストなどの話を聞かされることがありました。中年になった今ではすっかり話かけられなくなりました。(繁華街で胡散臭い黒服のお兄さんや居酒屋の呼び込み人に話しかけられるくらい。)

 

暇だったので、彼の話に付き合うことにしてみました。

 

ちなみに2つ目の気づきは、彼が当初からすべて日本語で話しかけてきていたこと。なぜ日本人は相手が欧米系の方となると、求められていないのに英語でしゃべろうとするのでしょうか。(発音が良いと褒められてちょっと嬉しくなっている自分が恥ずかしい。)

 

ここから先は、お互いに日本語でのやり取りとなります。(それでも時折英語の単語を挟み込もうとする自分がいます。彼のお名前はRさんです。)

 

Rさん:「神様の存在を信じますか?」

 

私:「神様godなる唯一無二の存在があるのかは分かりません。Rさんが言うところの神様が心の支えであるとするならば、私の心の支えは複数のもの:つまり、両親parentsと家族family、これまでの人生で私を支えてくれたすべての人々、共感できる文化cultureや価値観などですね。そういう意味ではこれらのものすべてが私にとっての神様だと信じています。」

 

Rさん:「そうですか… …。人は死んだ後にどうなると思いますか?」

 

私:「無nothingになると思います。

いや、正確に言えば、地球や宇宙を構成する物質の一部になるとでも言えるのでしょうか。

個体としての体は無になりますから、話をすることも見ることも聞くこともできませんが、全宇宙のほんの一部…part of Universeになるのかと考えています。」

 

Rさん::「そう、ですか……。

神は大地や生命など万物を創造したと聖書に書かれています。(聖書を差し出す)

もし、生きている間に神様に会えるとしたら、何をかなえてほしいですか?」

 

私:「う~ん、望みをかなえてもらうという感覚はないですね。

この世は太陽などの天体の動き、地球上の自然の営み、そこに暮らす人々の多様な気が複雑に絡み合って流れを作り出しています。もちろんそこには、人が発する悪い気の流れも含まれていますから、理不尽なこと、悲しい出来事も起こります。しかし人間が個別の力でなんとかできるものではありません。

逆らえない流れの中で日々一生懸命かつ誠実に生きようとするしかない。だから望みはかなえてもらうものではないと考えています。」

 

Rさん:「そう…ですか……。お話聞いてくれてありがとうございました。」

 

私:「いえ、こちらこそ。ありがとうございます。」

 

若いころには、「布教団体の若者に何かを買わされるのではないだろうか? どこかに連れていかれたらどうしよう」とドキドキしていましたが、歳を重ねるとは屁理屈をこねるおっさんになることだと思いました。

なんとも自分は面倒臭い奴だ。

 

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情報を正しく消化できる人になろう

先日、”流しそうめんで集団食中毒”とメディアで報じられていました。(被害にあわれた方の一日も早い快復をお祈りしております。)
 
このニュースはもちろんフェイクではなく、事実を報じたものです。
しかし、この目を引くニュースタイトルに1点の危惧が生じました。上記のタイトルを耳にして、「そうめんは危ない」と思われた人が一定数いるのではないだろうかと。まさか、自宅にある使いかけのそうめんを処分したり、そうめんの購入を控えたりする人が現れたとまでは思いませんが…。
 
食中毒の原因は、そうめんを流すのに使用した湧水に7月の大雨時の雨水が流入し、そこにカンピロバクターという菌が含まれていたためです。普段は行っていた水質検査も大雨後には行われていなかったため、菌の存在に気付かなかったと報じられています。
誰もがご存じの通り、そうめんは小麦粉から作られた乾麺であり、そうめん自体が食中毒を引き起こすような食品ではありません。(もっとも、茹でてから長時間放置していればそうめんと言えども傷みますが、通常茹でたての状態で食するはずです。)
 
ニュース記事にキャッチーなタイトルをつけて注目度アップを狙うのが、メディアの性です。『腐るはずのないそうめんを食べて食中毒になったのか!?』と情報の受け手側に立つ人はメディアの狙い通り記事に目を留めるわけです。
このとき、情報の受け手側に立つ人はタイトルだけを見て情報の処理を自己完結させていませんか。つまり脳内の”驚き中枢”を満足させて、意図的ではないにせよ、”そうめん=危険”との勝手な解釈を発動していないでしょうか。
 
情報を受けとるとは、興味や疑問をもって情報の詳細を自ら取りに行き、状況や根拠などを整理する作業です。それらの作業をもって情報の真偽を判断しなければなりません。
高速で通り過ぎていく数多の情報に振り回されないためには、立ち止まって聞く耳と調べ考える癖を身につける必要があります。それはいわば、一語一句の言葉を大切にすることにほかなりません。
 
100年前の関東大震災でも、情報の誤った受け取り方による悲劇が刻まれています。震災後の混乱の不安や恐れから根拠のない噂や一部の政治的主義者によるデマ(朝鮮人が井戸に毒を入れる等)が拡散されました。それに翻弄された人々が自警団を結成し、警察や軍とともに罪のない在日朝鮮人を虐殺しました。
自警団を結成した日本人もまた、嘘の情報によって脳内の”不安中枢”を刺激され、情報を精査する思考を放棄してしまったのです。
 
言葉は形がなくとも、人の感情や行動を支配します。言葉を使い捨てのものとして浴び続けると物事の裏側に潜む事実や意味を見落とすことになります。また、自分の発する情報が知らぬ内に誤解を招くことにもなりかねません。
SNSが日常に跋扈する時代だからこそ情報を自らで咀嚼し、自らの胃腸で消化できる人を目指さなければなりません。