理科塾から望む教育コラム

教育、世相、人と街…、肌で感じた小さな発見と疑問について軽い頭を絞りながら綴ります。

情報を正しく消化できる人になろう

先日、”流しそうめんで集団食中毒”とメディアで報じられていました。(被害にあわれた方の一日も早い快復をお祈りしております。)
 
このニュースはもちろんフェイクではなく、事実を報じたものです。
しかし、この目を引くニュースタイトルに1点の危惧が生じました。上記のタイトルを耳にして、「そうめんは危ない」と思われた人が一定数いるのではないだろうかと。まさか、自宅にある使いかけのそうめんを処分したり、そうめんの購入を控えたりする人が現れたとまでは思いませんが…。
 
食中毒の原因は、そうめんを流すのに使用した湧水に7月の大雨時の雨水が流入し、そこにカンピロバクターという菌が含まれていたためです。普段は行っていた水質検査も大雨後には行われていなかったため、菌の存在に気付かなかったと報じられています。
誰もがご存じの通り、そうめんは小麦粉から作られた乾麺であり、そうめん自体が食中毒を引き起こすような食品ではありません。(もっとも、茹でてから長時間放置していればそうめんと言えども傷みますが、通常茹でたての状態で食するはずです。)
 
ニュース記事にキャッチーなタイトルをつけて注目度アップを狙うのが、メディアの性です。『腐るはずのないそうめんを食べて食中毒になったのか!?』と情報の受け手側に立つ人はメディアの狙い通り記事に目を留めるわけです。
このとき、情報の受け手側に立つ人はタイトルだけを見て情報の処理を自己完結させていませんか。つまり脳内の”驚き中枢”を満足させて、意図的ではないにせよ、”そうめん=危険”との勝手な解釈を発動していないでしょうか。
 
情報を受けとるとは、興味や疑問をもって情報の詳細を自ら取りに行き、状況や根拠などを整理する作業です。それらの作業をもって情報の真偽を判断しなければなりません。
高速で通り過ぎていく数多の情報に振り回されないためには、立ち止まって聞く耳と調べ考える癖を身につける必要があります。それはいわば、一語一句の言葉を大切にすることにほかなりません。
 
100年前の関東大震災でも、情報の誤った受け取り方による悲劇が刻まれています。震災後の混乱の不安や恐れから根拠のない噂や一部の政治的主義者によるデマ(朝鮮人が井戸に毒を入れる等)が拡散されました。それに翻弄された人々が自警団を結成し、警察や軍とともに罪のない在日朝鮮人を虐殺しました。
自警団を結成した日本人もまた、嘘の情報によって脳内の”不安中枢”を刺激され、情報を精査する思考を放棄してしまったのです。
 
言葉は形がなくとも、人の感情や行動を支配します。言葉を使い捨てのものとして浴び続けると物事の裏側に潜む事実や意味を見落とすことになります。また、自分の発する情報が知らぬ内に誤解を招くことにもなりかねません。
SNSが日常に跋扈する時代だからこそ情報を自らで咀嚼し、自らの胃腸で消化できる人を目指さなければなりません。