理科塾から望む教育コラム

教育、世相、人と街…、肌で感じた小さな発見と疑問について軽い頭を絞りながら綴ります。

人が人であるために忘れてはいけないもの

■年末年始はドラマの一挙放送目白押し

 

休みの日はこんな風に過ごしてみたい。それは朝から夜までドラマの世界に投身することです。休日の遅い朝、寝ぼけ眼をこすりながらソファにインしてテレビのリモコンをオンします。たまたま画面に映し出された懐かしいドラマのオープニングに魂が吸い寄せられます。顔も洗わず、パジャマのまま、トイレ以外はソファに体が張り付きます。第1話と第2話の合間にキッチンから食材を調達しましょう。第4話あたりから空想世界への中毒症状が見られます。アルコールも用意しましょう。第6話を過ぎたあたりには、食い散らかした飲食物の残骸が散乱しています。第8話あたりで日没を迎え、カーテンくらいは閉めなきゃと重い腰を上げます。最終話のエンディングが奏でられたら、充血した眼をこすり酒臭い息を吐きながらドラマの余韻に浸ります。脚本家にでもなったかのように「あのセリフの意味するものはこうじゃないか。」、当時の社会情勢を回顧しつつ、「現代なら展開はこうなるかな」などと批評と反省をします。一通り考え終わると、今日一日何も生産していない自分に対する嫌悪感と後悔が襲って来ます。あぁ駄目人間…。

 

 

■2018年勝手にドラマ大賞ノミネートは

 

年末の遅い朝、偶々選択したCSチャンネルで一挙放送されていたあるドラマに魂を奪われてしまいました。(ただし、掃除やら毎年年をまたぐ年賀状作りやらで忙しく、駄目人間な休日の願望は叶わず、録画して一日に1~2本ずつ視聴しました。)ワンクールに4~5本の最新連ドラを録画視聴しますが、2018年最大級のマイヒット作は年末年始の一挙放送でやってきました。今さら「高校教師(第1作目)」です。90年代に放映された大ヒットドラマですが、当時大学生だった私は一通り視聴したことがありませんでした。

 

主役を演ずるのは、甘いマスクで90年代女子の心を鷲掴みにした真田広之とドラマ・CM・バラエティと大活躍したアイドル女優の桜井幸子です。テーマは、大学の研究員から女子高の生物教師に転任を命じられた、真田広之演じる羽村先生と、気難しい彫刻家の父を持つ、桜井幸子演じる女子高生二宮繭(まゆ)との禁断の恋話です。

 

冬の日の朝、定期券の不正利用の疑いで駅員に呼び止められていた二宮を着任初日の羽村先生が庇ったところから、二宮の羽村先生に対する恋心が芽生えます。高校教師を腰掛けに考えていた羽村先生にとって、当初、二宮はおきゃんな生徒でしかありませんでした。その後、羽村先生は、打算的な婚約者の裏切りや大学研究室からの理不尽な排除の憂き目にあいます。絶望の縁にいた羽村先生に二宮は純粋無垢な想いを寄せ続けます。やがて羽村先生はそんな二宮に愛おしさを抱くようになります。ところが、二宮には娘に異常な性愛を抱く父親の存在が…。救いと無償の愛を求める二宮。世間の常識・二宮への愛と嫉妬・彼女の父親への憎悪の間に揺れる羽村先生。我を失った羽村先生は二宮の父親に手をかけてしまうも、娘の幸せを願った父親は自宅に火を放ち自殺に見せかけ自害します。殺人容疑をかけられた羽村先生と二宮はお互いの愛だけを携えて逃避行をするが…。以上が大まかなストーリーです。

 

 

■高校教師にみる登場人物の真理

 

いい年をしたおっさんが禁断の恋バナにキャーキャー胸を躍らせていたわけではありません。(一応、私はこの種の変態ではありませんが、一歩間違えると引かれますよね。)人間の心理をえぐるドラマには定評がある脚本家野島伸司先生の丁寧な心理描写に改めて感服させられ、“人の真理”というものについて考えさせられました。

 

高校教師に登場する人物は、それぞれ真理に基づいた行動をとっています。それは、世間の常識や既成概念による正義だけでは計りきれないものです。二宮は、父親との歪な関係に窮屈さを感じ、無償の愛を羽村先生に受け止めてもらえることで自らの居場所を求めていました。一方で、憎悪にも似た感情を父親に持ちながらも、父親を見捨てられない思いも持ち合わせています。羽村先生は、田舎の堅実な家庭で真面目に育てられた秀才という設定です。世間の常識や立場に沿って生きてきた人生が人間のエゴや浅はかさによって狂わされる中で、心に正直な振る舞いを呼び起こすことに羽村先生は葛藤します。教師という立場もこれまでの堅実な人生も捨て去り、愛する者のために社会の掟を犯します。二宮の父親は穢れなき愛に飢え、娘への依存という歪な愛の中で生きています。しかし、羽村先生に殺人の罪を着せぬようにと迷うことなく自害の道を選んだのは、娘を愛していたからこそできたことです。単純な善悪の物差しをかざして、父親を二人の仲を引き裂くヒール役と捉えることはできません。

 

 

■真理と正義の間

 

「愛するものを守ること」・「誰かに必要とされること」を欲して行動することは人の真理です。真理があって正義があります。人が、人としての行いを正し、他者を受容し、社会を健全な共同体とするためにあるのが正義です。ところが、真理なくして正義が権力をもって人を支配し始めると、人は正義の名のもとに他者を排除し、自由の奪われた社会へ突き進みます。

 

高校教師と同様に“人の真理”と言えば、国民的アニメのある名シーンを思い起こします。機動戦士ガンダムに登場するララァアムロが敵として対峙した時の名場面です。時代の成り行きから戦いに巻き込まれてきたアムロに対してララァが言います。『なぜ、なぜなの?なぜあなたはこうも戦えるの?あなたには守る人も守るべきものもないというのに…。』戦う理由を問われて動揺するアムロは『では、ララァはなんだ?』と尋ねます。『私は、救ってくれた人のために戦っているわ。…(中略)…それは人の生きるための真理よ。』とララァは答えます。

 

ガンダムが大ヒットした時代、夕方の再放送を欠かさず視聴し、翌日はガンダムの話で同級生と盛り上がったのは小学生の頃です。当時は、モビルスーツや戦闘シーンのカッコ良さに夢中で、アムロ擁する地球連邦軍が“いい者”、ジオン軍が“悪者”という単純な二元論的構図にしか受け取れませんでした。機動戦士ガンダムは、宇宙戦争の舞台を通して人の心理を丁寧に描写した奥の深いアニメーションです。小学生の頃、上記のララァアムロの名シーンについて全く意味が分からず、地球連邦軍にとって強敵だったララァを目の上のたんこぶのように思っていました。そう、ガンダムを描いた富野由悠季さんらが言いたかったのは、「真理こそが人の生きる道なのだ」ということだったのです。小学生には難しすぎますよね。

 

 

■自由で認め合える社会を実現するには

 

最高裁判事の経歴を持つ刑法学者の故團藤重光氏は、正解の理由を法と規則にあることに求めてはならないと説いています。『社会の実情や変化を見ずして、法と規則で決まっているから』と物事を判断することは思考停止と同じことです。何も法律のようなお堅い世界の話に限らず、日常の世界においても校則や慣習的ルールを機械的に振りかざしてしまっている場面は多く見られるのではないでしょうか。法や規則が要らないと言っているのではありません。規則は人と社会が平穏でいられる為にあるはずです。規則が規則であるために、それを頑なに守ることに、盲目的に人々が必死になることは本末転倒なのです。正義は時代や国や宗教などの立場によって普遍ではありません。行き過ぎた正義が社会を窮屈なものにしないために、人の真理を理解して知性と想像力を働かせる努力を私たちは怠ってはいけません。